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第五十二話 名を呼ぶ声

Author: 月歌
last update Last Updated: 2025-04-12 11:00:00

◆◆◆◆◆

白い光に包まれた遥の身体は、重力を失ったようにふわりと浮かんでいた。

耳鳴り。心臓の鼓動だけが、遠く、そして近くで響いている。

どこまでも白く、静かで、何もない空間――そう思った瞬間、足元に確かな感触が戻ってきた。

視界がゆっくりと色を取り戻し、遥は固い石の床に降り立っていた。

(……ここは……?)

ひび割れた柱。崩れかけた天井。冷たい空気と、どこか祈りのような静けさ。

古い――それだけは、確かに感じられた。

神殿のようでありながら、重く沈んだ哀しみが空間全体を覆っている。

遥の視線が、ゆっくりと前方に向かう。

その先に、ひとりの少年が膝をついていた。

肩まで伸びる銀の髪。淡い光に照らされたその背は、今にも崩れそうなほど儚く見えた。

腕の中には――

灰色に変わり果てた、石と化した少年が、静かに抱かれていた。

(……魔王、アーシェ……)

遥は息を呑んだ。

これまで指輪を通して感じていた気配。

それが今、こうして目の前で呼吸をし、何かを見つめている。

アーシェの顔は穏やかだった。けれどその表情には、耐えるような哀しみが滲んでいた。

「……カイル……目を……覚まして……」

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